子供時代が終わらない

たぶんアダルトチルドレンのチラシの裏

「子供」の履修漏れ

アダルトチルドレン」は、もとはアルコール依存症の親のもとで育って大人になった子供たちについて造られた言葉で、その後定義が拡大され、アルコール関係なく機能不全家族で育ったことで様々な生きづらさを自覚している人たちが、自分たちについて語るときに使う言葉になった。(アルコール依存症の親の)”成人した子どもたち”という意味でのAdult Childrenなので、日本語で感じるような「子供っぽい大人」とか「大人になりきれていない人」のような意味はないし、過去そういった間違った意味でアダルトチルドレンを揶揄して問題になったケースもあったようだ。なのでこういうことを書くのはちょっと慎重になるけれど、私個人の感覚としては、「子供時代を全うできなかった」という意識が少なからずあって、子供のうちに履修しておくべきだったことが置き去りになっているせいで子供を卒業できていないような気がしている。そういうわけでこのブログ<子供時代が終わらない>はこういうタイトルになった。

 

吉田秋生の『海街diary』の1冊目で、主人公姉妹の中で母親代わりの役割を担ってきた長女が、「子供であることを奪われた子供ほど哀しいものはありません」と言う場面がある。この作品では姉妹の両親がそれぞれ恋人を作って家を出て行っているので事情は違うのだが、こんなハードな境遇でなくても、第一子長女というのは下の子たちの「小さなママ」になりやすい。たぶん母親からしても、同性ということで自分の身体・精神の延長みたいな感覚があるのかもしれない。子供だった頃は、この「小さなママ」的な振る舞いをすることで母が喜ぶので、進んでそういう役を演じ、それにべつだん疑問も抱いていなかった。大人になり、家族から離れて少し引いた目で見ている今は、特に母から私への弟に関する要求は「私は弟のママじゃない、それは私の果たすべき役割じゃない」と感じる案件ばかりなのだが、当時の私はそういうのは私が母に必要とされている証拠なのだと感じて、ちょっと過剰なほど弟の保護者ぶった振る舞いをしていた。そのうち知らないうちにこの役割が内在化して、落ち着いたしっかり者というのがもともとの性格だったかのようになり、中学の担任には「クラスの中に一人だけ大人がいるみたい」と言われた。そう言われたことを誇らしく思ってさえいた。

でも今になって考えると、年齢相応に子供らしくあることというのは、実は必要なことだったのではないかと思う。他所の子供たちの子供らしい自由さや無軌道さを見ていると、正直理解できないと思うと同時に、何か嫉妬にも似た「許せない」という気持ちが沸き上がって困惑する。自分でも気がついていなかったけれど、子供の頃の私の年齢不相応な落ち着きは、不自然な抑圧のもとでいくらかの子供時代を犠牲にした結果だったのかもしれない。それに本当の「子供」を全うしきらないうちに身につけた「大人っぽさ」は、真実の「大人らしさ」ではない。子供時代が何か足りなかったことを引きずり続けている今は、どちらかといえば自分は年齢に対して大人になりきれていないと感じている。

学校の単位なら勉強して回収することもできるだろうけれど、大人になってから「子供」を履修しなおすのは、とてもとても難しいのだ。